札幌高等裁判所 平成9年(う)75号 判決 1999年9月30日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一〇年に処する。
原審における未決勾留日数中四五〇日を右刑に算入する。
理由
検察官の本件控訴の趣意は、検察官篠崎和人作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人薄木宏一作成の答弁書に、被告人の本件控訴の趣意は、同弁護人作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官林菜つみ作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
第一 検察官の控訴趣意中、乗客K子に対する傷害の故意等に関する事実誤認の主張について
検察官の論旨は、要するに、原判決は、被告人がいわゆるハイジャックした東京(羽田)発函館行きの全日空旅客機八五七便の運航を支配する中で、乗客K子(当時二五歳)に対し、右手に角錐を持ったままその背後から両手で左肩付近を押す暴力を振るったため、角錐の先端部分が同女の肩に当たり、同女に加療約二週間を要する左肩甲部刺創の傷害を負わせたとの事実を認定し、併せて同女に対する傷害の故意の存在を否定したが、信用性の高い原審証人Jらの公判供述等によれば、被告人は、同女に対し、傷害の故意をもって、背後から角錐を振り下ろす態様でその身体に突き刺したものであることが認められるから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。
そこで、原審で取り調べられた関係証拠を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討すると、原審で取り調べられた関係証拠によれば、傷害の故意の点を含め、原判示のとおりの事実が認められるにとどまるものというべきであり、右認定は、当審における事実取調べの結果によっても覆らない。以下、所論にかんがみ補足して説明する。
一 関係証拠によれば、被告人は、本件当日午前一一時四五分ころ、羽田から函館に向けて飛行中の全日空旅客機内で、サリンに見せかけた水の入ったビニール袋を所携の角錐で突き刺す格好をしたり、プラスチック爆弾に見せかけたゴム粘土を示したりするなどして、客室乗務員らを脅迫して同機をハイジャックし、同日午後零時四二分ころに函館空港に着陸させた後も、誘導路上に駐機した状態のまま、乗客・乗員の降機を禁じ、客室乗務員らに命じて、ガムテープ等を用いて乗客ら三〇〇余名の手首を緊縛させたり目隠しをさせたりするなどして拘束状態においていたところ、同日午後八時二〇分ころ、機内放送等を通じて無断で席を離れないよう命じていたにもかかわらず、男性乗客Mが被告人に断り無くトイレに入ったのを見つけて立腹し、大声を上げながらこのトイレのドアを蹴るなどしてドアを開けさせようとしていた際、突然その隣のトイレのドアが開いて乗客のK子が出てきたこと、K子は、被告人がハイジャック犯の一人であると考え、被告人に背中を向けて自席に戻ろうとしたところ、背後から左肩甲部を被告人が手にしていた角錐(先端の金属部分の長さが約一〇・六センチメートル。)で刺され、原判示の傷害を負ったものであることが認められる。
二 右の状況について、被害者であるK子は、要旨「トイレに入っていると、外で男が何か大声で話している声が聞こえたので、ドアを開けて外の様子を見ると、右側の方で一人の男が、トイレに入っていた私や隣のトイレに入っていた人に大声で何か言っていた。ドアを閉めて用を済ませたが、外で男が大声を出していたので動揺し、ドアを開けて外に出たところ、右側に男が立っており、私に大声で何か言っており、言葉は思い出せないが、「勝手にうろうろしてるんじゃない。」ということを言って怒っていたと思う。男は、どちらかの手にスーパーの買い物袋のような白いビニール袋を持っていたと思う。男に「ごめんなさい。」と言って背中を向け自席に戻ろうとしたが、そのとき、左肩甲骨のあたりに一回何か固い物で叩かれたような衝撃を感じた。男は何か言っていたが思い出せない。緊張していたせいか、それほど痛みを感じることなく自席に戻り、父が肩のあたりを押さえてくれた。」旨供述している(原審甲38の検察官調書)。
右トイレの至近の座席にいたK子の父Jは、原審公判で、右の状況に関して、要旨「娘がトイレに行った後、被告人が周りを見渡すようにしながら現われたので、娘が犯人に見つかれば何をされるか分からないと、トイレに行かせたことを後悔しつつ心配した。被告人に言い訳的に「トイレに行っています。」と言うと、この言葉に反応したらしく、娘がトイレから出てきて、何、という形で、私の方に中腰のまま体をずらしてのぞき込むような感じになった。被告人は、左手に持っていた白っぽい紙袋のような袋に手を入れて千枚通し的な物を取り出し、右手でこれを逆手に持ち、肘を曲げて顔か肩の上あたりの高さまで振り上げ、先の尖った方をトイレから出てきた娘に向け、右腕を体ごと娘の背中に突き出して刺し、娘は、どんと弾みで座席に倒れ込んできた。」旨供述している。
一方、被告人は、捜査段階において、ほぼ一貫して、要旨「席に着いているように機内放送があったのにトイレに男性客が入ったのを見つけたので頭にきた。大声を出しながらそのトイレのドアを足で蹴るなどしていると、突然隣のトイレのドアが開いて女性が出てきたので、びっくりすると同時に頭にきていたので、「勝手なことをするな。」と怒鳴りながら両手で両肩を強く突き飛ばしたが、そのとき、右手に先の尖ったドライバーを逆手に持っていたので、これで刺すつもりはなかったが、結果的に刺さってしまった。」「一瞬のことだったのと、興奮していたからだと思うが、そんな刺したという手応えは感じていなかった。女性が左肩を押さえていたのを見て、私が怪我をさせたと思い、客室乗務員のI子に手当をするよう指示した、私は、できるだけ乗客には怪我をさせないで、ハイジャックの目的を達しようと思っていたので、この女性に申し訳ないことをしたと思った。」などと供述して、K子に対する傷害の意図を否定し(同乙8の警察官調書及び同乙21の検察官調書)、原審公判でも、「男性客の入ったトイレのドアを足で蹴ったり角錐で叩いたりしていたところ、隣のトイレからK子が出てきたので驚き、とにかくそこからどかそうと思い、K子の背後から、その左肩付近を両手で押すようにして、前方の通路の方に向けて一回突き飛ばしたが、その際、角錐を持っていたので結果的に刺さってしまった。K子に対して傷害を負わせる意図はなかった。」などと供述し、当審においてもほぼ同旨の供述を維持しているところである。
三 関係証拠によると、K子の負った創傷は、縦約一センチメートル、幅約二ないし三ミリメートルで、深さは肩甲骨部に達しているが、同女を診察・治療した医師佐藤隆弘の当審供述によれば、「刺入の方向は断定できず、また、意図的に刺したものか、押したり突き飛ばした際に刺さってしまったものかも判断できない。」というのであって、創傷の部位、形状等からは、犯行の態様を確定することはできない。
そこで、Jと被告人の各供述の信用性を検討するに、右のとおり、Jと被告人の供述は、重要な部分において相違があり、特に、被告人が、K子に怪我を負わせる前に、Jの供述するように、わざわざ所携の紙袋から角錐を取り出したのか、あるいは、被告人の供述するように、既に角錐を手にしていたかにおいて、顕著な相違がある。Jの供述を前提とすると、傷害の故意が強く推認されることになる。
しかしながら、被告人は、男性客Mが被告人の指示に反して、トイレに入ったことをとがめるために、本件犯行場所であるトイレの近くに駆けつけ、K子に怪我を負わせる直前には、トイレのドアを開けさせようとしていたものであり、しかも、本件が他に仲間のいない単独犯であることからすると、紙袋に角錐を入れたままという、とっさの事態に対応しにくい形で、トイレ付近に駆けつけたばかりか、トイレ内の男性客が被告人の指示に応じて、いつ何時出てくるかもしれないのに、その間も、角錐を手にしないで、紙袋に入れたままにしているというのは、不自然の感を否めず、この点に関するJの供述は、直ちに信用できないし、ひいては、被告人が紙袋から角錐を取り出したことを前提とする、その後の犯行態様に関するJの供述も、その信用性に疑問なしとしない。
さらに、Jの目撃供述を仔細に検討すると、K子が、トイレに入っている際に被告人が近づいてきてからトイレから出るまでの状況につき、他の関係証拠からは、被告人が大声を出しながら男性客Mが入ったトイレを足で蹴るなどしたことが認められ、この事実は、娘に危害が加えられるのではないかとの危惧が現実化しかねない極めて印象深いはずの出来事であるにもかかわらず、Jは、この状況を記憶していないとかやっていないと記憶しているとし、また、K子が、トイレから出る前に、外の様子を見るため一度ドアを開けたり、トイレから出た際に被告人に「ごめんなさい。」と声をかけ、男は何か言っていた旨供述しているのに、これらの状況も記憶していないなどと述べ、更に、K子が、刺された後自分の席に戻った旨供述している点についても、「どんと弾みで座席に倒れ込んできた。」と述べるなど、記憶の欠落ないし他の証拠との齟齬が存在する。
これに対し、傷害の故意を否定する被告人の供述は、前記のとおり、医師佐藤隆弘の当審供述と矛盾するところはないし、関係証拠により認められる事実、すなわち、被告人は、K子に傷害を負わせた後、男性客Mの入っているトイレに立ち戻り、大声で「出てこい。」と怒鳴り、Mがトイレのドアを開けると、「怪我をさせるぞ。手を出せ。」などと言って脅したが、これも実際にMの身体に角錐等で攻撃を加えることもなく言葉で脅したにとどまり、「今度だけは許す。」と言って危害を加えずに席に戻らせ、怪我を負わせたK子にも治療を受けさせていること、被告人が、犯行を開始してから逮捕されるまでの間に、実際に人に傷害を負わせるような事態に至ったのはこの件だけであったこと、などといった本件前後の被告人の言動等に符合するものがある反面、被告人に運航支配の目的があったとはいえ、一見して小柄な女性客に対し、傷害の故意をもって重大な傷害をも与えかねない態様で角錐で突き刺すという行動は、被告人の前記のような言動にそぐわないものがあるといわなければならない(なお、所論は、被告人がK子に怪我を負わせた後、機内放送で乗客に怪我人が出たことを伝えさせ指示に反する行動を取らないよう命じたことをもって、傷害の故意の存在を裏付けるものとするが、結果的に怪我人が出たことを事後的に利用したものとみることもできるから、右機内放送の点をもって直ちに傷害の故意の存在を推認することはできない。)。
以上のような諸点に照らすと、Jの供述は、直ちに信用し難い一方、傷害の意図がなかったとの被告人の供述も、あながち排斥し難いものがあり、被告人のK子に対してした暴行が、検察官主張のような態様のものであって、かつ被告人に傷害の故意があったとの事実は、合理的疑いを越える程度に証明されたものとまではいえない。その他、所論が縷々主張する点を関係証拠に照らして検討しても、原判決に所論指摘のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。
第二 弁護人の控訴趣意中、航空機関士Gに対する脅迫文言に関する事実誤認の主張について
弁護人の論旨は、要するに、原判決は、犯罪事実として、被告人が航空機関士Gに対し、「これ何だか分かるか。これはプラスチック爆弾でビルを破壊するくらいの威力がある。俺には仲間がいて、他にもプラスチック爆弾がある。スイッチは遠隔操作が可能で、函館空港の周辺にも仲間がおりそこでも操作ができる。」などと脅迫した旨認定したが、Gの供述によれば、被告人は、粘土の塊を示して「これ何だか分かるか。」と述べただけであり、その結果、Gは、被告人が特に述べたわけでもないのに、被告人が示したゴム粘土をプラスチック爆弾だと考え、また、塊の大きさが大きかったことから、飛行機はもちろん、空港のターミナルビルも吹き飛ばす威力があると考えたにとどまるから、原判決には、犯行態様に関する脅迫文言につき、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。
そこで、記録を調査して検討すると、原判決の所論指摘の箇所の記載をみると、原判決が認定した右脅迫文言は、Gに向けて発せられたものだけではなく、その前に客室乗務員D子に向けて発せられたものを含めて認定・記載したものであることが判文上も明らかであり、原審で取り調べられた関係証拠中、D子及びGの各検察官調書(原審甲21及び甲18)によれば、D子は、被告人から、所携の粘土状の塊を示され、「これが何か分かるか。」と言われ、「分かりません。」と答えると、被告人から「これは、プラスチック爆弾でビルを破壊するくらいの威力がある。」と言われ、時期は分からないが、「俺には仲間がいて、他にもプラスチック爆弾がある。」とか、「スイッチは遠隔操作が可能で、函館空港の周辺にも仲間がおり、そこでも操作ができる。」というような意味のことを言われて脅迫されたこと、また、Gは、被告人から、所携の粘土状の塊を示され、「これ何だか分かるか。」と言われ、その形状やリード線のような物が出ていたことなどからプラスチック爆弾だと思い、「はい、分かります。」と答えたところ、「いいな、言ったとおりにしろよ。」とか、「これのスイッチを持った仲間が下にいる。いつでも押せる状態だ。」とも言われて脅迫されたことが認められ、他にこれらの供述の信用性を否定する証拠も見当たらない。そして、原判決は、右の供述などをもとに、D子とGの両名が乗務員としてほぼ同じ立場にあり、脅迫の内容もほぼ同旨であるため、脅迫文言を右のとおりにまとめて一括して記載したものと解されるから、原判決には、所論指摘のような判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認はない。論旨は理由がない。
第三 弁護人の控訴趣意中、被告人の責任能力に関する事実誤認の主張について
弁護人の論旨は、要するに、被告人は、本件犯行当時、心神耗弱の状態にあったのに、完全責任能力を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討すると、原審で取り調べられた関係各証拠によれば、本件犯行当時、被告人には責任能力に何ら欠けるところがなかったことは明らかであり、原判決が「争点に対する判断」の第三「責任能力」の項(以下「補足説明」という。)で説示するところも正当として是認できる。右認定・判断は、当審における事実取調べの結果によっても左右されない。以下、所論にかんがみ補足して説明する。
一 関係証拠によれば、被告人が本件犯行に及んだ動機は、「オウム真理教の教祖である麻原彰晃を連れて来させて地下鉄サリン事件などの実行を指示したことを告白させよう。それができなければ、麻原を殺害してから自殺し、名誉の死を遂げるとともに生命保険金を家族らに受け取らせよう。」というものであって、このような意図からハイジャックという犯罪を敢行した脈絡には、いささか常軌を逸した感を否めないところであり、捜査段階で被告人の精神状態を簡易鑑定した医師多田直人は、「被告人は、犯行前日には双極性感情障害(躁鬱病)の躁状態にあったと判断され、簡易鑑定の問診中にもなお軽躁状態にあり、そのことからも犯行時に双極性感情障害(躁鬱病)の躁状態ないし軽躁状態にあった可能性が強く、したがって、犯行時において、是非善悪を弁識し、その弁識に従って行為することのできる能力が著しく減退した状態にあった可能性があるものと判断される。いわゆる心神喪失の状態にはなかったもののいわゆる心神耗弱状態にあった可能性が強い。」旨の鑑定所見を示し(同医師作成の精神鑑定書(簡易鑑定)及び同医師の原審供述。以下、これらを「多田鑑定」という。)他方、原審で被告人の精神状態を鑑定した医師福島章は、「被告人の本件犯行時及び現在の精神状態は、ヒステリー性格(顕示性精神病質、演技性人格障害)であり、これは性格の異常にすぎず、被告人は精神分裂病や躁鬱病のような精神病に罹患していない。犯行時における是非善悪を弁識する能力と、その弁識に従って行為することのできる能力には、ほとんど障害がなかった。」旨の鑑定所見を示し(同医師作成の精神状態鑑定書及び同医師の原審供述。以下、これらを「福島鑑定」という。)、専門医の意見が対立していることは、原判決が補足説明に記載するとおりである。
二 しかしながら、原判決も適切に認定・説示するとおり、福島鑑定は、心理テストを含めて多田鑑定で躁鬱病の根拠とされた点をつぶさに検討し、その結果、被告人が抑鬱状態になるときは必ず環境的な要因があるため、反応性の抑鬱であって内因性の抑鬱ではないこと、被告人の自殺念慮は、その行動パターンから見て、躁鬱病の自殺念慮のようにいつ実行されるかもしれないものとは認められないこと、躁病のエピソードといえるには、気分が異常かつ持続的に高揚するなどの期間が少なくとも一週間持続することが必要であるが、犯行前日のホテルでの予行演習や犯行時のように興奮や高揚が十数時間だけ持続したにすぎない場合には躁病のエピソードとはいえないことなど、合理的根拠を示しながら、右のとおり被告人に躁鬱病等の精神病は存在しないとの結論を導いたものであって、その鑑定内容と結論の相当性に特段の疑問はない上に、被告人の本件犯行に関する記憶は、ホテルでの予行演習の細部等の一部を除き、具体的でよく保持されていて不自然な欠落がないこと、被告人の行動をみても、オウム真理教の信者を装ってハイジャックを敢行するという目的の下に、サリンやプラスチック爆弾に見せかけるためのチャック式ビニール袋やゴム粘土等の犯行に必要な道具を買い揃えるなどした上、ホテルに宿泊して予行演習を行うなどし、犯行に着手した後には、単独犯であることが発覚しないようにするため、仲間がいて爆弾を遠隔操作できるなどと脅迫したり、管制塔との交渉を自ら直接行わずに客室乗務員を通じて行ったり、食事の差入れや乗客の一部解放を拒否したりし、東京に引き返すという要求が容易に受け入れられない状況にあると判断すると、客室乗務員に対し、外国人乗客から殺傷すると伝えた上、これを実行したかのような演技をしたりもしているのであって、目的達成に向けて終始合理的な行動をとっていること、犯行の動機は、前記のように一見して理解が容易であるとはいい難いものの、これも、当時、被告人は、経済的な面や内妻らとの二重生活に起因する夫婦関係等の容易に解決し難い問題を抱えて苦慮し、自殺して生命保険金を家族に残そうとまで考えるに至っており、一方、いわゆる地下鉄サリン事件という世間を震撼させた凶悪事件が発生し、その犯人と疑われたオウム真理教の信徒やその教祖である麻原彰晃をめぐってマスコミが大々的に報道していたという当時の社会情勢等からすると、被告人がこれらの報道等に関心を強く持った挙げ句、前記のような犯行の動機を抱いて本件を実行したというのも、それなりに了解可能であることをも併せ考えると、被告人が、本件犯行当時、行為の是非善悪を判断し、その判断に従って行動する能力が著しく低下していたことを窺わせる事情もないとし、被告人は心神耗弱の状態にはなかったものと認められるとした原判決の判断は、当裁判所としても十分に首肯できるところである。
のみならず、当審における事実取調べの結果、すなわち、当審で被告人の精神状態を鑑定した医師山上皓も、被告人の性格・傾向について、「本来犯罪傾向とは無縁であるが、対人関係における葛藤の処理が拙劣で、強い情緒刺激にあうと、判断能力を低下させやすい傾向がある。」と分析した上で、本件犯行について、「被告人は、本件犯行前、経済的な逼迫と難航する離婚問題とによって心理的な危機状態に陥っており、ストレスを発散・回避するためにハイジャック計画の空想に熱中していたが、犯行前日からの妻との衝突によって更に情動的な負荷が加わったことから、精神的視野の狭窄を来たし、短絡的思考に基づいて、本件犯行を名誉ある死を可能とする絶好の機会と思い込んで犯行に及んだ。」として、「被告人は、現在躁鬱病等の精神疾患に罹患しておらず、本件犯行時も、同様に躁鬱病等の精神疾患には罹患していなかったものと思われる。」と結論づける鑑定所見を示しているのであって(同医師作成の精神状態鑑定書及び同医師の当審公判供述)、右の山上医師の鑑定所見は、前記認定を裏付けるものといえる。 以上によれば、被告人は、本件犯行当時、心神耗弱の状態になかったことが明らかである。その他、所論に鑑み関係証拠を仔細に検討しても、原判決に所論指摘のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。
第四 検察官の控訴趣意中、量刑不当の主張について
検察官の論旨は、要するに、本件の罪質、犯行の動機・目的、計画性、手段・態様、結果、被害感情、社会的影響等の諸般の情状に照らして、被告人を懲役八年に処した原判決の量刑は、著しく軽きに失して不当である、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討する。
本件は、乗員一五名と被告人を含む乗客三五〇名を乗せた東京(羽田)発函館行き全日空旅客機(ボーイングB七四七型)の飛行中の機内で、被告人がオウム真理教の信者を装い、サリンを偽装した水の入ったビニール袋を示して角錐で突き刺す仕草をしたり、プラスチック爆弾を偽装したゴム粘土を示したりするなどして客室乗務員ら及びこの者らを介して機長らに脅迫を加え、乗客らをガムテープで緊縛させるなどした上、東京に引き返すよう理不尽な要求をするなどし、これにより同機の通常運航を不能にするとともに、函館空港に着陸した後も乗客・乗員を降機できない状態に置くなどして右旅客機の運航を支配したという、いわゆるハイジャックの事案である。
その犯行の動機は、勤務先の会社で閑職に異動させられるなど冷遇されたこと、持病の気管支喘息や自律神経失調症などのため欠勤がちで健康上の不安を抱えていたこと、新潟県内で生活する内妻とその間にもうけた子との二重生活に家庭的・経済的不安を抱え、これを知った妻との離婚話が思いどおりに進展しなかったことなどから、自己名義の生命保険の保険金を家族に取得させる目的での自殺を思い立つなど苦慮する一方で、当時、地下鉄サリン事件が発生し、これがオウム真理教の組織的犯行であるとされ、その教祖である麻原彰晃について大きく報道されているのを見て、麻原に対する憤りを募らせた被告人が、オウム真理教の信者が麻原を釈放させる目的でハイジャックを敢行したかのように装い、麻原を連れて来させて罪を認めさせ、それができなければ麻原を殺害して自殺しようなどと考えたことにより、本件犯行を敢行したもので、多数の乗客・乗員に対する生命等の危険、事件に対応した航空関係者らをも含めての精神的苦痛や肉体的疲労、関連した有形無形の損害・損失や迷惑等をかえりみないその動機は甚だ身勝手で、犯行の動機・経緯に酌むべきものは全くない。
本件のように、運航中の大型旅客機をハイジャックすることは、それ自体、不特定多数の者が利用する公共交通機関としての航空機の安全な運航を阻害し、これに対する社会的信頼をも著しく損なうものであり、特に、対象が航空機の場合、些細な障害の発生が墜落等の事故を招来し多数の貴重な人命を失わせるという深刻かつ重大な結果をもたらす危険性も高く、本件の罪質自体からして、極めて責任の重いものであることは、多言を要しないところである。
また、犯行の態様をみると、被告人は、当時、世間を騒がせ不安に陥れていたサリンという極めて毒性の強い危険な化学物質や、破壊力の強力なプラスチック爆弾を手にしているように見せかけるため、銀色保冷バッグ、角錐、チャック式ビニール袋、ゴム粘土、伸縮用アンテナ、模型用コード線、ブザーなどといった物のほか、麻原の首を絞めるためのビニールひも、指紋を残さないための水絆創膏、変装用のサングラス、乗員・乗客を緊縛するためのガムテープなどの道具を事前に準備し、偽名を用いて航空券を購入して搭乗手続を行った後、ターミナルビル内で、動きやすい服装に着替えて黒色帽子やサングラスを着用した上、チャック式ビニール袋三個に水を入れてサリンに見せかける道具を作って銀色保冷バッグに入れるなどの準備を整え、機内に入ってからは、離陸から間もない午前一一時四五分ころ、高度約一万メートルで栃木県付近上空に差し掛かった際、客室乗務員I子に対し、銀色保冷バッグを開いて水が入ったビニール袋を示しながら、金属部分の長さが約一〇・六センチメートルの角錐を右手に持ってビニール袋を突き刺す仕草をし、あたかも機内にサリンを拡散させるように装いながら、「静かにしろ。分かるな。尊師のためだ。言うことを聞けば乗客の命を助ける。」などと申し向けて脅迫し、同乗務員をして、ガムテープで二階席の乗客ら四名の目と口を塞がせたり両手を後ろ手に縛らせたりした上、客室乗務員D子に対し、角錐を示しながら、「尊師のためだ。東京に戻れ。乗客を騒がせるな。機長にこのことを知らせろ。」などと申し向けて脅迫し、コックピット内の機長E、副機長F及び航空機関士Gにその旨伝えさせて同人らを脅迫した上、Gを呼び出してコックピット内の武器になりそうな工具類を二階客室まで運ぶよう命じたり、I子をして、ガムテープでGと客室乗務員H子の目と口を塞がせたり両手を後ろ手に縛らせたりし、更に、D子とGに対し、プラスチック爆弾に偽装したゴム粘土を示しながら、「これ何だか分かるか。これはプラスチック爆弾でビルを破壊するくらいの威力がある。俺には仲間がいて、他にもプラスチック爆弾がある。スイッチは遠隔操作が可能で、函館空港の周辺にも仲間がおりそこでも操作ができる。」などと申し向けて脅迫し、Gを介してコックピット内のE機長及びF副機長に伝達させて脅迫し、これらの脅迫により、E機長らをして、もし要求に応じなければ、サリンを拡散させたりプラスチック爆弾を爆発させたりして乗客や乗員の生命身体に危害を加えかねないと畏怖させ、抵抗できない状態に陥れ、G機関士から、東京に引き返すには燃料が不足する旨告げられたのに対し、「函館に着陸後、給油して東京に戻れ。滑走路の方向に止めて給油しろ。」などと要求し、その結果、E機長らは、被告人の要求に応じることを余儀なくされ、午後零時四二分ころ、函館空港に着陸した後、通常の運航では使用しない七番スポット後方の誘導路上に駐機させ、E機長の運航支配権を奪ったまま、折り返し函館から東京に向けて運航を予定していた本件航空機の通常運航を不能にするとともに、乗客・乗員を本件航空機から降りることのできない状態にし、その後、午後一時ころ、一階客室において、客室乗務員B子らをして、ガムテープやビニールひもで乗客の目を塞がせたり手首を縛らせたりし、また、午後八時二〇分ころには、無断で席を離れないよう命令していたのに、男性乗客がトイレに入ったため立腹し、大声を上げて右トイレのドアを蹴るなどした際、その隣のトイレから出てきた乗客K子に対し、右手に角錐を握ったまま背後から両手で左肩付近を押す暴力を振るい、右角錐がK子の肩に当たり加療約二週間を要する左肩甲部刺創の傷害を負わせるなどし、その後、翌日午前三時四二分ころ機内に突入した警察官に逮捕されたが、それまでの間、本件旅客機の運航を支配し続けた、というのであって、特に、当時、オウム真理教の信者らによるとされる地下鉄サリン事件が惹起されたりした上、同信者がハイジャックにより麻原教祖を奪還するかもしれいないという記事が週刊誌に掲載されるというような状況下にあって社会不安が募る中で、脅迫の手段として、破壊力・殺傷力の極めて高いプラスチック爆弾やサリンを偽装した道具を準備した上、実際にこれらを乗員らに見せつけて畏怖させたこと、犯行の間、被告人の本件犯行が単独犯行ではなく、多数の者が関与しているかのようにも偽装し、管制塔や機長との交渉も、自ら直接行わず、右のような態様から誤信した客室乗務員らを通じて行うなど、手口も巧妙であること、函館空港に着陸してからだけでも、乗客・乗員らが開放されるまで約一五時間にもわたって航空機の運航を支配した上に、その間、食料の差入れや乗客の一部解放の要求を拒否し、乗客の中には、高齢者や乳幼児、疾病のある者などが含まれていたにもかかわらず、食事をとることを禁じたり、トイレに行くことすらも制限するなどの非人道的な状態に置いたこと、安全な運航に責任を持つ機長やその他の乗員のほか人質的立場に立たされた乗客らの蒙った極度の精神的緊張や苦痛は甚だ激しいものであったこと、被告人に傷害の故意はなかったにせよ、危険な角錐を手にしていたことから、乗客一名に傷害を負わせたこと、その他、乗員・乗客らに有形・無形の被害を及ぼしたものであって、犯情は悪質というほかはない。
そして、本件の結果は、右のとおり、三四九名の乗客と一五名の乗員という多数の者が被害に遭い、多大の精神的苦痛を蒙って本件航空機の通常の運航が阻害されたという直接的影響のほか、本件により、函館空港は長時間にわたって閉鎖され、離発着予定の多数の航空機も欠航を余儀なくされて多数の利用客の足に影響が出るなど、函館空港の航空業務にも多大な支障が出たこと、本件による財産的損害も、乗客への運賃の払戻しや逸失利益その他の事件処理関係費用により、全日空から民事訴訟が提起された分だけでも五三六六万円余にのぼり、その他の関連各社の被害を併せると、総額で一億円を優に超えるのであって、本件により関係各方面に直接的・間接的に多大な財産的損害を蒙らせたことも看過できない上、全日空が企業イメージを損なったことも否定できず、関係者らがいずれも被告人の厳重処罰を求めるのも当然である。
以上によれば、被告人の本件刑事責任は相当に重い。
そうすると、被告人は、本件の凶器として、プラスチック爆弾やサリンを偽装した道具を準備し、これらを乗員らに示すなどして脅迫したが、これらは危険な凶器を偽装したもので、実際にはこれらの凶器を犯行に用いたり準備をしたりしておらず、殺傷能力が認められるのは、角錐のみであり、客観的にみれば、本物の銃器や爆発物が用いられた場合と比較して、乗客・乗員の生命身体に対する危険性は高くなかったこと、被告人は、捜査段階及び原審の公判廷において、本件についてそれなりに反省し改悛の情を示したこと、これまで前科・前歴がないこと、本件で勤務先を懲戒解雇されたことなど、被告人のために酌むべき諸事情を十分に考慮しても、被告人を懲役八年に処した原判決の量刑は、軽過ぎて不当であるというほかない。論旨は理由がある。
第五 よって、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所において、被告事件について、更に次のとおり判決する。
原判決が認定した犯罪事実に原判決挙示の各法条(当審における訴訟費用を被告人に負担させないことについても同じ。)を適用し、前記の諸事情のほか、当審における事実取調べの結果認められる事情、すなわち、原判決宣告後、全日空を債権者とし被告人を債務者とする強制競売手続に付されていた被告人所有の不動産が売却され、全日空に約四七七万円の配当金が支払われたこと、被告人は、当審公判廷で、本件で被害を蒙った関係者に対し、服役後にもできる限りの償いをしたい旨供述していっそう反省の情を深めていることなどの事情をも量刑上考慮して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 近江清勝 裁判官 渡辺 壮 裁判官 嶋原文雄)